年始の決意を誕生日とともに

(Facebookより転載)

皆様、温かいバースデーメッセージの数々、ありがとうございました。
ソーシャルメディア研究者の端くれとして、この日ほどソーシャルグラフへの接続感を感じる日はありません。

時間を見つけて個別にリプライさせていただきますが、まずは所信表明から。

混迷を極めた30歳を脱出すべく、31歳で心機一転ビジネススクールの門を叩き、33歳で修了。才能があるかないかなどまったく分からないものの、とにかく理論と実務の往復運動が楽しくなってしまい、師の帰国を待って、34歳で大学院に出戻りました。勘所のつかめないまま無為に1年を過ごし、見かねた師に手を差し伸べてもらい(と、勝手に思っている)ようやくエンジンがかかってきた35歳でした。

直接的な仕事のことは宣伝以外できるだけこの場に書かないように心がけていますが、あいつ、研究のことばっかで、仕事全然しねーなと言われるのもマズいので、ちょっとだけ。

流行り言葉で言えば「地方創生」のお仕事を中心に取り組ませていただいております。クライアントさん並びにその関係者に恵まれまして、本当にどなたも熱い志を持ち、お手伝いさせていただく側のこちらも勉強させていただくことがしばしばです。

それ以外にも、もちろん幾つかの民間のお仕事もお手伝いさせていただいております。昨年は、これがやりたくてこの業界に入ったんや、と言っても過言ではないコンシューマー・グッズのお仕事にも携わらせていただくことができました。巡り合わせに感謝。どのお仕事も共通して楽しかったです。ありがたいことだ。

それから、ビジネススクールでの2年間や現在の研究活動がそのまま実務に活きているなと感じていることも強調しておかねばなりません。直接実務につながるような研究はしていなかったつもりなのですが、時代の流れか、それとも予言の自己成就か、意外と直接的に活きる局面も増えてきたように思います。引き続き、ビジネススクール不要論、アカデミック不要論に対して、博士課程の裏テーマ「理論と実務の融合:共約不可能性への挑戦」についてのアクションリサーチに取り組んでいきたいと思います。

さて、30代も折り返し、今年は顔を出しつつある芽を育むべく、いろいろ仕掛けようと昨年末から密かに決意を固めております。具体的なアクションも起こしつつあります。引き続き、皆様のお力をお借りしながら、公私ともに取り組んでいきたいなと思います。

純粋プライベートの目標は、山に登ること、ダイビングのライセンスをとること、ビーチ・リゾートでひたすらのんびり過ごすこと、雪山に行くこと、プライベートで奈良を旅すること、です。これ、毎年言っているような気がしますが(笑)

最後に、英語も頑張ります!

企業と市場と観察者

最近とあるきっかけをいただいてぐるぐると考え続けていること。まだまだまとまっていないが自身の整理のために吐き出してみる。

師匠の書いた『企業と市場と観察者―マーケティング方法論研究の新地平』が好きだ。博士論文に基づき公刊された本。私が修士の時に上梓され、初めて読んだが難解すぎて何のことかはさっぱりわからなかった。それから幾度となく読み返しては悶絶し、相変わらずさっぱりわからないのだが、それでも好きな章はできた。それが12章である。私の問題意識と一致するからだ。いや、むしろ12章に出会ったから今私は博士課程に足を踏み入れたのかもしれない。

さて、12章をお伝えするためにも、以下に頑張ってそこまでの議論の道のりの要約を試みる。本書のすべての章に共通する主張は恐らく以下の1点であると思われる(違ったらすいません、弟子の不出来ということで、何卒ご容赦ください)。

“A”と”1″という2つのパラダイム(概念的枠組み、考え方を定めるための枠組みのようなもの)があったとする。そのふたつは異なるパラダイムであるから共通の基準は存在しない。これを学術用語で「共約不可能性」と言う。この考え方によると異なるパラダイムに共通の基準は存在しないから、”A”と”1″という2つのパラダイムの優劣は判定できない、という。

しかし、共通の基準が存在しないことが、ただちに優劣判定できないということにはならない、と筆者は主張し「共通の基準を参照することのない優劣判定の可能性」を論ずる。この主張を基に(この主張自体は先行研究でもたびたび言及されてきた)マーケティング論における様々な論点が議論されていくわけである。

共通の基準がないのにどうやって優劣を判定できるのだろうと頭の中に「?」が点滅した読者も少なくないだろう。私もその一人である。いまだに「?」が点滅している(笑)私の付き合い方としては、その議論を理解するのではなく、まるっと飲み込んだことにして、各章を読んでいくことであった。従って、実務家の方々はぜひ言いたいことをぐっとこらえて、まるっと飲み込んだ上で12章を読んでいただきたい。

「ビジネススクールの可能性」という題で構成されるこの章は、古くからよく言われてきた古典的な対立である「理論と実務の溝」、すなわち実務家の「理論は実務の役には立たない」というボヤキに挑むものである。

この問題はアカデミアにおいては「厳密性」と「実用性」という対立であると読み替えることができる。研究に取り組んだことのある人ならわかると思うが、学術の世界の正当なアウトプットであるとされる論文は、厳密な様式(体裁が何より重要視される)、厳密な手続き(結果以上にプロセスが重要視される)と言った「厳密性」が何より問われる。このことが現実との乖離を生むとしばしば批判されてきた(その辺はp.207にBenbasat & Zmud(1999)やDavenport&Markus(1999)の議論を引用しながら詳細に示されているので参照されたい)。

冒頭の議論に戻ると「厳密性」と「実用性」は共約不可能であり、従って「研究者」と「実務家」もまた共約不可能であるということになる。しかし、その共約不可能な2つが対立しつつ、バランスを求め合う場所がBS(ビジネススクール)ではないかと本書では論じている(p.206)。

最近いただいたとあるきっかけにとなる問い並びに主張(まどろっこしいw、そしてここからはまだあまりまとまっていない)は、

第一に、アカデミアにおける「厳密性」は不要ではないか(実務家にとって何の意味があるのか?)
第二に、研究者の観察による理論構築は不要ではないか(であれば、実務家が観察をして対処したほうが早いのではないか)
第三に、前ふたつに対する「蓄積がなくなる、意味をなさなくなる」という批判に対しては、実務の世界にも蓄積はあり(例えば、メソッド)、実務の方が(厳密性がない分)サイクルが早いので実務においては有益である

というものである(実際にはもう少しありそうな気もするが、ここでは議論をシンプルにするために3つくらいに留めておく)。

これらの主張はむしろDavenport&Markus(1999)の議論、すなわち経営学はさらに実用性を充実させる必要があり、コンサルタントの分析の早さを学ぶべきであり、医学や法学に近い研究体系の構築を志向すべきである(水越, 2011, p.207)という主張に近しいのではないかと考えられる。もっともそれに対してBenbasatらはゆえに差別化を図るためにもより厳密性が必要であると反論するわけであるが。

さて、これらの問い(主張)に対して、私は「厳密性」の意義と研究者の観察による理論構築の意義について擁護しなくてはならない立場であるということがひとつ(アカデミアに片足を置く者、あるいは研究者と実務家の橋渡しを志向する者として)、一方で、引き合いに出した本書に可能性を見るならば、そもそもそのような議論自体が不要なもので(なぜなら、それらは共約不可能だから)、その上にバランスを求め合う可能性を論じたほうがよいのではないかとする立場もあるのではないか、と、、、まあ、最後の方はまだ思考がぐちゃぐちゃなので、うまくアウトプットできないですが、最近は後者の立場が優勢で論考を進めています。

ということで、なんとなくまとまらない感じで今回の投稿を終えます。答えを期待していた方、ごめんなさい。

件の問いをくれた友人と師匠はどうやら知り合いらしいので(世界は狭いw)、1回、飲み会という名のパネルディスカッションでも開催させていただいて、再びこの場で発表させていただければなと思います。

Long Vacation

後輩のハワイネタに刺激されて告白。

昨年から部下をつけていただき、今年はプランナーの増強も図ることができて、体制が強化されたことを良いことに、9月に有給休暇を取得し10日間ほどバカンスに出かけました。

思えば社会人になってこれほど長期にお休みを頂戴したのははじめてのこと、新婚旅行でもそれほど休んでいなかった。

クライアントはもちろん、チームメンバー・協力会社の皆様にはご迷惑をおかけしたことと思いますが(もちろん事前に入念なスケジュール調整と業務引き継ぎは行って出掛けたつもり)結果、なんとかなりました。

そして、今、振り返るとかなりその休暇が下期に利いているなあと感じます。

昨年、第二子が生まれる直前に仕事でほぼ一ヶ月間まるまる家をあけるという事態(仕事自体は最高にクールで楽しかったケド)、、、冗談抜きにその後、家庭崩壊の危機がやってきました。(それでも支えてくれた妻には心より感謝)

学業もちっとも身が入らず、志高く進学した(させていただいた)はずなのに情熱を失っている自分がいました。気ばかりが焦る日々。(師はそれに気付いていたのでしょう、今年に入ってからの飲みの席でチラリと「面白くなくなっているでしょう」と優しくご指摘くださいました)

仕事だけは順調でしたが、それでも目先のことばかりに追われて余裕がない感じがありありでした。それもなんとかしたかった。もう新人ではないのだから、いい年次でそれなりのポジションもいただいているのだから、もう少し広い視野で業務を捉え、責任を全うしたいなと思っていました。

そんな折のバカンスでした。最近、ロンバケネタ多くて恐縮ですが、まさにロングバケーション。ちょっと立ち止まって休んでみたかった。

目先の仕事のことは忘れて、家族を第一に、子供と触れ合い、そしてプライベートで自分がやりたいこと、すなわち研究に勤しみ、仕事のことや今後の自分や家族との人生とのことをじっくり考えてみたかった。

妻の希望もあって新婚旅行で訪れたハワイに行きました。今度は子供ふたりを連れて。(新婚旅行、私の希望はペルーかカンボジアだったのですがプレゼン通らず、お互いビーチリゾート好きで年をとっても家族で訪れることのできるハワイにしようという妻のプレゼンに潔く負けを認めましたw)

多少仕事のやりとりはしましたが、基本的には部下やチームメンバーを信じてすべてをお任せしました。とにかく、昼間は仕事のことを一切考えずに、朝早起きをして、家族と朝食をとり、ビーチかプールに行って、ひたすら子供と遊ぶか、本(や論文)を読むか、寝るか、という毎日。多少、ホールフーズ・マーケットに行ったり、ダイヤモンドヘッドの麓のハワイ大学のキャンパス内で週1開催されるマーケットに行ったり、ホノルルズーに行ったりはしましたが、基本、食っちゃ遊んで寝る、とにかく贅沢な時間を過ごさせていただきました。

帰国して以来、いろんなことが上手くいった気がします。(たんに私の気持ちがリフレッシュされて感じ方が変わっただけかもしれませんが、それならそれでもいい気がするw)

まず、なにより家族の一体感が高まりました。これまでのギスギスしてケンカの絶えない感じはどこに行ったのだろう、というくらい、家庭が明るくなり、それに準じてお互いの思いやりの心を取り戻すことができました。(相変わらず、家事・育児にコミットしているとはとても言えませんが、それでも少しずつコミットしようと頑張っています)

仕事は棚卸しをして、もう少し大局で物を見ることができるようになったと思います。中長期的に取り組みたいこともできてきて、自分の中で過去に一度失敗したと思っているような取り組みにも二度目のチャレンジとして取り組んでみたいなと思えるようになりました。

学業は論文をたくさん読めたことが功を奏し、自分が専門にしようと思っている領域への理解が深まるとともに、なにより自信がつきました。ジャーナルに投稿できるレベルのものではありませんでしたが、自身の整理のために2本論文(うち1本はレビュー、1本はケース)を書き、1本は大学のResearch Papersに登録、もう1本も近日登録の予定です。さらに2本を改稿中、1本を新規に執筆、共同研究1件、来年度に向けての研究計画も策定中です。業績はともかく(汗)、前向きに研究に取り組めるようになり、なにより研究そのものや学校での議論が楽しみになりました。

1年365日のうちのたったの10日、2.7%の時間でこれだけのことが変わる。
正直、これまでの自分はなんだったんだろうとすら思います。もちろん、これまでのいろんな積み重ねや繋がりがあるからこそ、この10日間の休暇が利いたのだとも思いますが。

本当に休んでよかった。悩んだけど、思い切って休んでよかった。休んで迷惑や負担をかけた以上に、いろいろ還元できていると思います。

というわけで、なんだかとっても取り留めなくなってしまったけれど、ロングバケーションは大事だね、という話でした。

チームメンバーには休暇奨励します。もちろん、その間は相互にフォローし合えばよい。そのためのチームなのですから、ということで、

働き方をいろいろ変えていこう、と思う、2016年、年の瀬。

企業と市場と観察者、その続き。

そう、この感じが嫌いで僕はいつも殻に閉じ籠る。
既得権益、過去の威光、保身。糞食らえ、うんざりだ。
口を開けば文句と愚痴ばかり。
でも、私もその中のひとりだった。
仲間を失ってはじめて、そんな自分に嫌気がさした。
志ある人たちとともに前に進みたい。
そのためにはチカラが欲しい。
3年前の私はそんなことを思いながら、新しい門を叩いたような気がする。

我ながらポジティブなようでいて極めてネガティヴな動機w

2年間でモノの見方が大きく変わった。
たくさんの素晴らしい出会いに救われ、よき師にも巡り会えた。
学ぶことがこんなに楽しいものなのか、と、
おそらく人生ではじめて感じたように思う。

学部時代の亡き恩師には申し訳ないが、
先生はすべてを分かっておられたと思うし、
すべては自分の未熟さ故で、先生に帰するものでもない。
先生との対話は学問以外のことが多かったように思うが、
その中で全人格的な教育をいただいたと思っている。

学びが楽しくなった。
まだまだ、まだまだ、未熟な私がいる。
もっともっと、もっともっと、真理を探究したい。

一方で私は実務家でもある。
むしろ、そちらが本業だ(笑)
実務においていかに成果をあげるかは
極めて重大なテーゼである。

師は、自身の著書の中で、実務とアカデミアの乖離についての
数多くの先行研究を提示しながら、
ビジネススクールの可能性について論じている。

Mintzberg(2004)ら多くの研究者が指摘するように、
アカデミアの厳密性と実務の実用性は対立するものなのか。

師のように、まだ明解な答えはないのだけれど、
自らの身をもってそれを探求してみようとも思う。
すなわちアカデミアの厳密性は実務の実用性に還元するのか、
アカデミアと実務の接点ではどのような現象が生じうるのか、
実務家がアカデミアに身を置くとはどのようなことか。
明らかにしたいことは山とある。

まだまだまだまだ未熟な私の力では何年かかるか想像もつかない。
とりあえず6年くらいは、と思ってはいるが(笑)

まずは目の前の一歩から始めようと思う。

諸先生方、先輩諸氏、ご指導の程、何卒、よろしくお願いします。

「問い続けること」「問い直すこと」(ビジネススクールを修了して)

ビジネススクールに入学して最初の頃の授業での話である。

ある教授がおもむろにホワイトボードのマーカーを手に取り、

「これは何だろうか?」

と、学生たちに問うた。

どこからどう見てもホワイトボード用のマーカーにしか見えない。
当然、私たち学生は「ホワイトボード用のマーカーです。色は黒色。」と答える。

すると教授は、

「本当にこれはマーカーか? マーカーとは何か?」

と、続ける。

まるで、禅問答だ。
正直、これはとんでもないところに来てしまった、と思ったものである。

同じような構造の議論を、ゼミに所属してからも、
師やゼミ仲間と延々繰り広げることとなった。

「ペンはペンか?」
「テレビは冷蔵庫か?」

このような問いについて30〜40歳前後のいい大人たちが、

「ペンはペンでしかないでしょうが!」
「いや、ペンはペンではないかもしれない!!」

と、90分、口角泡を飛ばしてディスカッションする。
傍から見たら気でも触れたのだろうかと思うかもしれない。
挙句「テレビは冷蔵庫か?」ときたものだ。
もう、気が触れているに違いない(笑)

「テレビは冷蔵庫か?」と問うたのは、師の師である、石井淳蔵教授である。
「マーケティング思考の可能性」(石井 2012)の第2章にその議論がある。

この難解な1冊をテキストにゼミ生全員で輪読を行ったわけであるが、
(今だから言えるが、当時はさっぱりわからなくて、
議論に貢献することはほとんどできなかったように思う)
さて、この種の議論から何が生まれるのだろうか。

これが本稿の主題である。

この答えとして、少し本意とは異なるかもしれないが、
私の師の言葉を引用したい。

同じ「問い」が与えられるといっても、「問い」には、何かを問い続けるという姿勢と、何を問い直すという二つの姿勢がある気がする。たぶん、より価値があるのは問い直すという姿勢ではないか(水越 2012)

前述の議論は「ものに価値は内在するのだろうか?」という問いを発端とする。
同様の問いに「顧客ニーズは実在するのだろうか?」というものもある(水越ら 2013など)

マーケティングの議論において、私の知る限り、
いずれもそれらは当たり前の前提として議論されてきたように思う。

マーケティングの大家とされるコトラーがまとめた
マーケティング・マネジメントは、多くの大学院生のテキストとなり、
多くの実務家にも支持されるところであるが、

その中でも、

マーケターは標的市場のニーズ、欲求、受容を理解しようと努めなければならない。『ニーズ』とは、人間の基本的要件である。(中略)マーケターがニーズを作り出すのではない。ニーズはマーケターより先に存在するのである。(Kotler 2008, 邦訳p.31)

と記述されている。

私たち実務家はおそらくほとんど何の疑いもなく理論を受け止め、
実践しようとするだろう。少なくとも私はそうしてきたように思う。
そのように規定されてきたし、一見すると納得もいく。
異を唱える者も少なく、なにより安定感がある。
そして、実務上当てはまらないということ以上に異を唱えるのは
私たち実務家の仕事ではない。(そのような時間はない、と思うだろう)

しかし、先のような議論を突き詰めていくと、
プロセスの中で別の価値が出現したり、
関係性の中で顧客ニーズが形成されたりすることもまた明らかになっていく。

再び、師の言葉を引用しよう。

何かを問い続けるという姿勢は、もちろんすばらしいが、要するにそれは納得する答えが未だ一度も見つかったことがないという状態のように感じる。だから、はじめての答えを求めて問い続けるのであり、それは可能性でもあるが、同時に砂漠に一滴の水を探すがごとき苦難の道である。あるいは、「問い続けねばならない」というとき、万が一答えが得られてしまうと、もう問い続けることができなくなってしまうのだから、問い続ける目的としての発見は、常に実現できないという矛盾を抱えている。

(中略)

さて、むしろここで確認すべきなのは、問い続けることというよりは、問い直すという表現の価値であった。問い続けるという姿勢に比べると、問い直すという姿勢が意味しているのは、答えが与えられてしまった後の作業であるように思う。かりそめでもなんでも、答えが一度与えられ、一定の安定が得られている状況において、今一度その答えをめぐって問いを再開するというわけだ。こちらには問い続ける姿勢のような矛盾めいた悲壮感はない。ジャンプし、なんならまた同じ場所に戻ってきてもいい。(水越 2012)

経営学は、社会のように変数が複雑で、
ましてや人間のように完全な合理性を持ち得ない対象を科学、
観察する学問である。

帰納的に見て真と思えることでも、
別の時代、別の環境、別の条件下では偽となろう。

従って、この「問い直す」ということは
我々、実務家にとっても、極めて重要なことのように思う。

そこでは、解を得ることが格別重要なわけではない。
解を得ようとする過程において、
別の新たな発見が得られるかもしれないという可能性が重要だ。

最後に、ミクロ組織論の講座で
素晴らしい授業を繰り広げられた高尾義明教授から
修了式に贈られた祝辞が印象的であったので引用させていただき
本稿を締めくらせていただきたいと思う。

論文とはなにか。
論文とは、問いがあり答えがあるものである。
優れた論文を書く秘訣は「優れた問い」を見つけることである。
優れた問いを見つけることができたならば、
解の半分以上は得られたに等しい。

私はここに、得られた答えを「問い直す」ということの意義についての
一論考を付け加えさせていただく。
そして再びビジネススクールでの学ぶことの意味を自らに問い直したいと思う。

最後に余談となるが「テレビは冷蔵庫か?」という議論は、
佐藤B作氏が主宰する東京ボードヴィルショーの名作舞台で
三谷幸喜氏が脚本を手がけた「アパッチ砦の攻防より 戸惑いの日曜日」の
名シーンを思い出させる。

この作品は佐藤B作氏が扮する悩める父親のドタバタ人情コメディーである。
自宅のテレビを修理にきた電気屋にテレビを映るように修理してくれと言うのだが
訳あって、ランドリールームに閉じ込めざるを得なくなってしまう。
ドタバタが終わって、一件落着、すべてが丸く収まったと
客席がほっと一息ついた瞬間に、閉じ込められていた電気屋が出てきて一言。

「お客さん、あれはどっからどう見ても洗濯機にしか見えないけれど、
お客さんがどうにかあれを映るようにしてくれって言うから、
なんとか映るようにしといたよ」

なるほど、テレビは冷蔵庫ではないかもしれないが、
洗濯機はテレビになり得るかもしれないのだ。

 

参考文献:
Kotler, Philip(2008)『コトラー&ケラーのマーケティング・マネジメント 第12版』, ピアソン桐原.
石井淳蔵(2012)『マーケティング思考の可能性』, 岩波書店.
水越康介(2012)「『マーケティングの神話』再考」(http://mizkos.jp/data/2013/01/post-10.html)
水越康介ら編(2013)『新しい公共・非営利のマーケティング 関係性にもとづくマネジメント』, 碩学舎.