日本マーケティング学会 マーケティングジャーナル2020 奨励賞

日本マーケティング学会 マーケティングジャーナル2020 奨励賞を受賞いたしました。

http://www.j-mac.or.jp/prize/

麻里久(2020)「ソーシャルメディアはブランドコミュニティか,ブランドパブリックか? ― 企業公式Facebook ページの分析 ―」『マーケティングジャーナル』、39(3)、pp.104-115。

選んでくださった先生方、論文掲載に当たり示唆に富む建設的なコメントの数々を頂戴しました2名の匿名レビュアーの先生方、学会等でいつも叱咤激励くださる諸先生方、修士論文のご指導をいただきました副査の先生方、TMU-BS10期マーケティングゼミのみんな、そしてなによりも長年にわたり根気強くご指導いただいております指導教員の水越康介先生に心より感謝申し上げます。

名の通り、今後への期待が込められた賞だと思っております。今取り組んでいる研究の成果をしっかりと発表し、ご期待にお応えできるよう一層精進して参ります。

学問をビジネスにインストールする

先週末,私が修了した東京都立大学大学院経営学研究科MBAプログラム(ビジネススクール)主催のオンラインセミナーにパネリストとして登壇させていただきました。

当時は所属していた組織のことや自身の成長と未来についてめちゃくちゃ悩んでいた頃で,ミクロ組織論の講座を受講しては毎夜涙が止まらず,同級生の某出版社のお兄さんと五反田で飲み明かした日々を今でも思い出します(もちろん誇張表現ですが,飲んではその日の講義の内容について語り合ったのは事実です,笑)。そんなミクロ組織論の教授からのお声がけでした。

テーマは「学問をビジネスにインストールする」。大量の情報を容易に入手でき,不確実性が高まる昨今,普遍的な本質を思考する方法を受け継ぎ,今なお紡ぎ続けている知のネットワークである学問の世界。ビジネスの現場に学問をどうインストールするか(なぜインストールすべきか,どうやってインストールすべきか)を議論するという私ごときには高尚すぎるアジェンダでした。

ビジネススクールの紹介があり,M1(修士1年)によるグループ研究の成果発表,昨年度修了生による修士論文発表があった後,WBSの根来先生,都立大BSの竹田先生,在校生1名,私,そしてコーディネーターの先生を加えて5名でのパネルディスカッション。まさか我が人生で根来先生・竹田先生と同じステージに立たせていただける日が来ようとは(オンライン開催だったのが悔やまれます,笑)。

詳細はここでは差し控えさせていただきますが,その中で私は次のようなことを述べました。

  • 通常,我々は目前の「課題」に対して「知識・スキル」を用いて「答え」を出す。しかし,知識もスキルも魔法の杖ではなく,そこで出される答えは一時凌ぎの解になることが多い(環境や状況が変わるとその知識やスキルは通用しなくなってしまう)
  • そういった問題意識に対してビジネススクールの門を叩く人は多いかもしれないが,ビジネススクールに幸せの青い鳥はいない(これはビジネススクール入ってすぐにある教授からはっきり言われました。私の師からも言われた気がする)
  • かわりにビジネススクールで習得したことは「現象/課題」から「問題」を抽出する能力。この問題の抽出の過程において,時にはその問題の持ち方を変えたり,問題の位置をずらしたりことによって,問題を解決することができる。幸せの青い鳥のかわりに,我々は自ら問いを立て,問題を解決する能力を手に入れることができた。

かなり師の影響を受けています。(というか,師の主張そのものと言っても良い)でも,私自身,今,本当にそう思っています。

ビジネススクールで修士論文を書くということ 現場の問題を自分から(少しだけ)切り離せ。
http://mizkos.jp/2017/02/16/bsmt/

そして,師のエッセイにもあるように,私は切り離すこと(と繋げなおしに挑戦すること)が面白くなってしまい,今のような二足のわらじを履くに至ります。

この時,具体的な経験を話してくださいと言われて,はたと困りまして。私にとっての具体的な経験は二足のわらじを履いたことなのですが,そんなこと言われても誰からも共感は得られないよな,と,思いまして,ビジネススクールで習得した能力をどう実務の現場で使おうともがいているかを述べようと思い,私が専門としているソーシャルメディア・マーケティングにおけるエピソードを披露しました。

結果,私のFacebookのフィードを見ていただければわかるのですが,自分的には見事に失敗したなと思いまして,とてもわかりにくい説明になってしまったと大反省した次第。(オーガナイザーの先生や竹田先生,BS同期や後輩の方々からは温かいコメントいただきまして,本当に感謝です)

で,もう少し考えて,こう説明すれば,少しは分かりやすくなるだろうか,というものを考えたので,こちらで晒したいと思います。

「ソーシャルメディアを活用することで売上を上げたい」というマーケティングにおいて昨今よく見られる課題に対する,通常のビジネスプロセス(上)とビジネススクールで得られるスキルを用いたプロセス(下)で整理してみました。

これ,ちゃんと問題を持ち替えられているだろうか,とか,言いたいことと事例が合致しているのかな,とか,いろいろ粗がありそうなので,ご意見いただきたいなと思いました。

まあ,しかし,冒頭にも書いたように,私が敬愛する先生にお誘いいただいたことや,根来先生・竹田先生という経営学の領域で誰もが知っている重鎮の先生方と同じステージに立てたこと,根来先生にいじっていただいたこと(笑),などなど,もう自分的にはそれだけで光栄すぎるし,両先生の論が素晴らしすぎたので,それだけでパネルディスカッションは成功だった,と勝手に思っています,笑。

JAAA 第49回懸賞論文

JAAA 第49回懸賞論文に拙著が入選しました。

麻里久(2020)「広告的、関係性マーケティング再考」『JAAAレポート臨時増刊号 第49回懸賞論文 入賞・入選作品集』、in printing。

JAAA 第49回懸賞論文

企業と市場と観察者

最近とあるきっかけをいただいてぐるぐると考え続けていること。まだまだまとまっていないが自身の整理のために吐き出してみる。

師匠の書いた『企業と市場と観察者―マーケティング方法論研究の新地平』が好きだ。博士論文に基づき公刊された本。私が修士の時に上梓され、初めて読んだが難解すぎて何のことかはさっぱりわからなかった。それから幾度となく読み返しては悶絶し、相変わらずさっぱりわからないのだが、それでも好きな章はできた。それが12章である。私の問題意識と一致するからだ。いや、むしろ12章に出会ったから今私は博士課程に足を踏み入れたのかもしれない。

さて、12章をお伝えするためにも、以下に頑張ってそこまでの議論の道のりの要約を試みる。本書のすべての章に共通する主張は恐らく以下の1点であると思われる(違ったらすいません、弟子の不出来ということで、何卒ご容赦ください)。

“A”と”1″という2つのパラダイム(概念的枠組み、考え方を定めるための枠組みのようなもの)があったとする。そのふたつは異なるパラダイムであるから共通の基準は存在しない。これを学術用語で「共約不可能性」と言う。この考え方によると異なるパラダイムに共通の基準は存在しないから、”A”と”1″という2つのパラダイムの優劣は判定できない、という。

しかし、共通の基準が存在しないことが、ただちに優劣判定できないということにはならない、と筆者は主張し「共通の基準を参照することのない優劣判定の可能性」を論ずる。この主張を基に(この主張自体は先行研究でもたびたび言及されてきた)マーケティング論における様々な論点が議論されていくわけである。

共通の基準がないのにどうやって優劣を判定できるのだろうと頭の中に「?」が点滅した読者も少なくないだろう。私もその一人である。いまだに「?」が点滅している(笑)私の付き合い方としては、その議論を理解するのではなく、まるっと飲み込んだことにして、各章を読んでいくことであった。従って、実務家の方々はぜひ言いたいことをぐっとこらえて、まるっと飲み込んだ上で12章を読んでいただきたい。

「ビジネススクールの可能性」という題で構成されるこの章は、古くからよく言われてきた古典的な対立である「理論と実務の溝」、すなわち実務家の「理論は実務の役には立たない」というボヤキに挑むものである。

この問題はアカデミアにおいては「厳密性」と「実用性」という対立であると読み替えることができる。研究に取り組んだことのある人ならわかると思うが、学術の世界の正当なアウトプットであるとされる論文は、厳密な様式(体裁が何より重要視される)、厳密な手続き(結果以上にプロセスが重要視される)と言った「厳密性」が何より問われる。このことが現実との乖離を生むとしばしば批判されてきた(その辺はp.207にBenbasat & Zmud(1999)やDavenport&Markus(1999)の議論を引用しながら詳細に示されているので参照されたい)。

冒頭の議論に戻ると「厳密性」と「実用性」は共約不可能であり、従って「研究者」と「実務家」もまた共約不可能であるということになる。しかし、その共約不可能な2つが対立しつつ、バランスを求め合う場所がBS(ビジネススクール)ではないかと本書では論じている(p.206)。

最近いただいたとあるきっかけにとなる問い並びに主張(まどろっこしいw、そしてここからはまだあまりまとまっていない)は、

第一に、アカデミアにおける「厳密性」は不要ではないか(実務家にとって何の意味があるのか?)
第二に、研究者の観察による理論構築は不要ではないか(であれば、実務家が観察をして対処したほうが早いのではないか)
第三に、前ふたつに対する「蓄積がなくなる、意味をなさなくなる」という批判に対しては、実務の世界にも蓄積はあり(例えば、メソッド)、実務の方が(厳密性がない分)サイクルが早いので実務においては有益である

というものである(実際にはもう少しありそうな気もするが、ここでは議論をシンプルにするために3つくらいに留めておく)。

これらの主張はむしろDavenport&Markus(1999)の議論、すなわち経営学はさらに実用性を充実させる必要があり、コンサルタントの分析の早さを学ぶべきであり、医学や法学に近い研究体系の構築を志向すべきである(水越, 2011, p.207)という主張に近しいのではないかと考えられる。もっともそれに対してBenbasatらはゆえに差別化を図るためにもより厳密性が必要であると反論するわけであるが。

さて、これらの問い(主張)に対して、私は「厳密性」の意義と研究者の観察による理論構築の意義について擁護しなくてはならない立場であるということがひとつ(アカデミアに片足を置く者、あるいは研究者と実務家の橋渡しを志向する者として)、一方で、引き合いに出した本書に可能性を見るならば、そもそもそのような議論自体が不要なもので(なぜなら、それらは共約不可能だから)、その上にバランスを求め合う可能性を論じたほうがよいのではないかとする立場もあるのではないか、と、、、まあ、最後の方はまだ思考がぐちゃぐちゃなので、うまくアウトプットできないですが、最近は後者の立場が優勢で論考を進めています。

ということで、なんとなくまとまらない感じで今回の投稿を終えます。答えを期待していた方、ごめんなさい。

件の問いをくれた友人と師匠はどうやら知り合いらしいので(世界は狭いw)、1回、飲み会という名のパネルディスカッションでも開催させていただいて、再びこの場で発表させていただければなと思います。

「抽象」と「具体」の往復運動

首都大学東京の高尾先生に教えていただいた、一橋大学の楠木先生のコラム。

「抽象」と「具体」の往復運動

http://diamond.jp/articles/-/16412

 

そして、それを援用したビジネススクール論。

抽象と具体との往復運動を繰り返す、このような思考様式がもっとも『実践的』で『役に立つ』ということがある程度的を射ているとすれば、具体的な現場を日頃体験されているみなさんの場合、ビジネススクールでは(無理矢理)抽象に引っ張られることの方がよいのかもしれません。

なるほど。