天才に対するコンプレックスから考える「理論派」について

理論派,ってなんか理屈っぽくて,堅苦しくて,少しばかり悪口な響きですが(そんなこともない?),何が悪いのかな,などと考えたりもします。

イチローさんが長嶋茂雄さんの追悼コメントで「理屈ではなくフィーリングでプレーする方。天才とはこういう選手のことを言うのだと感じた。」と発言されていましたが(各紙・各局),感覚で出来てしまう人は天才なんだと思います。

でも世の中そんな天才なんてほんの一握りです。多くの人は感覚ですべてが上手く出来てしまうことは少ない。そこで理論(理屈)が登場するのだと思うのです。

フィーリングは暗黙知ですが,理論は(一般化されていれば)再現性があり(すなわち理屈を超えており),言語による伝達が可能です。つまりこれは形式知ということです。従って,感覚では上手くはいかない多くの凡人を天才に近い水準に引き上げることが可能となるわけです。ただし暗黙知を全て形式知にすることは難しいので,どこか一歩天才には及ばないことが多いのでしょう。それほどに,それゆえに,天才は凄い!

それは何もスポーツの世界に限ったことではありません。経営や私が専門にしているマーケティング(特に感じたのは前職でやっていた営業)の世界でも天才はいます(それも結構たくさん😁)。

天才ではない私はそういう人たちが羨ましかった。と,同時にどうやったら彼ら彼女らと肩を並べることができるのだろうか,と考えました。たどりついた結論が理論(理屈)に頼るということでした。

故に理論派と言われても何が悪いと思っています(実のところあまり面と向かって言われたことはありませんが,影ではそう揶揄されているのではないかと勝手に思っています,笑)。こちらは理論(理屈)しか武器がないのだから。天才のあなたには分からないでしょう,と思います。もちろんビジネスの世界でも天才の方が凄いです(理由は先に述べた通り)。でもそのコンプレックスによって今の自分があるので,理論(理屈)でここまで生き抜いてくることができたので,次世代の―同じような悩みを抱えて天才に憧れる―天才ではない自分にコンプレックスを抱えた若者に理論(理屈)を授けたいなと思っています。

注)「理論」と「理屈」は別のものです。理論には客観性があり,理屈には客観性がなく極めて主観的なものである,という認識でこの文章を書いています。理論を理屈と同義に取り扱う人が「理論派」を悪口っぽくしてしまっているのかもしれません(が,恐らくは,ただ単に私の僻み,コンプレックスからくる歪んだ認識だと思います,笑)。

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