もし中教審でスピーチするなら─大学不要論の時代に、大学が救った一人の人間の物語

大学教員になってから5ヶ月が経ちました。
この間、大学における教育とは何かを考え続ける日々でした。

おそらく私のような人間が中教審に呼ばれることはないでしょう。
しかし、もしお呼びいただけるとしたならば、私は次のようなことをお話したいと思います。

──もしも私が中教審に呼ばれたら。妄想スピーチをご笑覧ください😄

皆さま、本日は貴重な機会をいただきありがとうございます。
私は福井工業大学で経営学・マーケティングを教えております麻里久と申します。また、立命館大学OIC総合研究機構にも籍を置き、客員研究員として研究に取り組んでおります。

実は私は高校を中退し、一度「中卒」として社会に出ました。いわゆる「エリート」とは正反対の道から大学の門を叩き、地方国立大を卒業し、その後はJR東海エージェンシーを経て博報堂など広告業界で二十年以上働きました。その間に博士号を取得し、現在は地方の大学で学生たちと日々向き合っています。

この経歴を一言で表すならば、「大学に救われた人間」です。だからこそ、大学不要論・文系不要論・Fラン不要論といった言説が盛んになる今、この場で私がお話しすることに大きな意味があるのではないかと考えております。

近年、大学に対して「就職に直結しない」「役に立たない」「コストの無駄だ」という声が高まっています。
確かに、定員割れや就職率の低迷など、課題を抱える大学が存在することは否定できません。社会に価値を示すことなく存続し続けることは許されないでしょう。淘汰されるべき大学がある、という指摘は重く受け止めなければなりません。

しかし、不要論の多くは「大学=知識を教授する場所」という誤解に基づいています。知識ならばインターネットで得られる。それは事実です。しかし、そこには大きな誤認があります。

大学の役割は知識伝達ではありません。

大学教育の本質は 「態度を育てること」 にあります。
知識や技能は社会に出れば更新され、やがて陳腐化します。しかし、「問いを立てる態度」「知を疑い、探究する態度」「共に学び、共に生きる態度」──これらは社会で生き抜くための基盤であり、一生の財産です。

私自身、大学で先生方から学んだのは知識よりも「知への興味」「問いの重要性」でした。そして大学院では「知の生み出し方」「問い直す勇気」を学びました。さらに、何より大切だったのは、共に生き抜く仲間や人生の師を得たことです。

だからこそ私は今、そうした教育を私なりに解釈して再生産することを念頭に、大学で学生たちと日々対話しています。

「役に立たない学問はいらない」という主張は、短期的な経済合理性に基づいています。しかし歴史を振り返れば、イノベーションの多くは「役に立たないと思われていた学問」から生まれました。AIも量子力学も、その出発点は純粋な知的好奇心でした。

不要論は、未来の可能性を自ら閉ざすことに等しいのです。さらに「大学不要論」が広まれば、社会における知的格差は一層拡大します。学ぶ力を持たない層が再生産され、民主主義そのものが脆弱化します。教育は国家百年の計であり、大学教育を切り捨てることは、国家の基盤を削り取ることにほかなりません。

もちろん、大学は現状のままで良いわけではありません。むしろ不要論に晒されているからこそ、自らの価値を証明する努力が必要です。

  • 地域社会とのつながりを強め、地域に不可欠な存在であることを示すこと。
  • 学生に「態度・問い・仲間」を提供する教育実践を徹底すること。
  • 専門的知の社会翻訳者として、学術と市民社会をつなぐ役割を果たすこと。

この三点こそ、21世紀の大学の生存戦略であり、在らねばならぬ姿だと考えています。

最後に、私自身の物語に戻ります。
私は一度、学びの道から落ちこぼれました。しかし大学が私を受け入れてくれたからこそ、今こうして研究者としてここに立っています。授業料免除といった公的支援や、無利子奨学金にも救われました。皆さんの税金で学ばせていただきましたことに、深く感謝しています。

「大学は不要だ」と言う方々に、私はこう問い返したいのです。

あなたが今立っているその場所を支えているのは、学問と大学教育ではないのか。

私が中卒からここに来られたのは、大学が知識ではなく「態度」を私に与えてくれたからです。
だから私は敢えて断言します。大学は不要ではありません。むしろ、人が人として生きるために、これからの時代にこそ必要とされる場なのです。

ご静聴くださり誠にありがとうございます。私からは以上です。

以上が、もし私が中央教育審議会に呼ばれたら語りたい「妄想スピーチ」でした、笑。
もちろん、現実にはそんな機会はあり得ないでしょう。

しかし、大学教員としての5ヶ月を経て、「大学の価値とは何か」を問い続けることこそが、私自身にとっての教育実践なのだと強く感じています。
このエッセイが、大学不要論が飛び交う時代にあって、改めて「教育とは何か」を考える一助になれば幸いです。

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