問いは返ってくる―ある沈黙との出会い

前期が終わった。専任教員になって初めての夏がやってきた。
キャンパスに響く蝉の鳴き声が好きだったことを思い出す。

「大学で学ぶって,どういうことだと思う?」

そんな問いを,私が担当している「マーケティングⅠ」の講義の最後に,学生さんたちに投げかけた。
マーケティングの話ではない。けれど,この問いこそが私の講義の核心だったのだと思う。

なぜ,こんな問いをマーケティングの講義の最後に投げかけたのか。
それは,私にとってマーケティングとは,単なる販売戦略や分析手法ではなく,「市場の他者と自分をつなぐ関係性を基盤として,その関係性を交換というかたちで具体化・検証し,価値を共に生成・共有・更新する知の体系」であると考えているからだ。

つまり,マーケティングを学ぶということは,他者と関係を築き,その関係のなかで何が価値たりうるのかをともに考えることに他ならない。そして,他者は容易に理解することはできない。

だからこそ,「大学で学ぶとは何か?」という根源的な問いは,実はマーケティングそのものにつながっていると,私は思っている。
マーケティングとは,他者との関係をつくること。価値を,ともに考え,ともに生成していく営み。
であるとするならば,「学ぶ」とは,その前提にある「ともに考える」という姿勢のことではないだろうか。

講義の最終回。
私は,その問いをきっかけに,学生さんたちとしばし立ち止まって考える時間を持った。
「将来の役に立つから」「自分の学びたいことが学べる」「専門性が高い」「単位のため」……
思い思いの言葉が次々と返ってきて,場が温まり,私はとても嬉しかった。

そんななか,ふと視線が留まった学生さんがいた。
講義中,ずっと,別の講義の課題をしていたのか,私の講義にはあまり参加していなかったように見えた。(私は普段の講義で「私語」等他の受講生の迷惑になる行為以外はなんでも許容している。根本的には私には関係のないことだし,一方で私の講義がちゃんと機能しているかどうかのバロメーターのひとつだと思っているので操作はしないことにしている)

でも,その学生さんにも聞いてみたかった。
「あなたは,大学で学ぶって,どういうことだと思いますか?」

…その瞬間,空気が静かに張り詰めた。

彼女はマイクを持ったまま,固まってしまったのだ。
まるで時が止まったかのように。
「何でもいいんだよ」「単位のため?それとも大学を卒業したいから?」
私は,なんとか言葉を引き出そうとしたけれど,
隣の友人と顔を見合わせて困ったように笑い,結局,何も答えることができないまま,時間だけが過ぎていった。

私は動揺した。戸惑った。
どんなに緊張していても,「わかりません」「ちょっと思いつかなくて」…そんな一言が出るかと思っていた。
でも,沈黙のまま。何も言葉にならなかった。
今考えると,それが,あのときの彼女の「答え」だったのだと思う。

その後,次の学生さんへと回答権を移して,講義は何事もなかったように進んだ。
けれど,私はいまでも,あのときの光景をはっきり覚えている。
その後,何事もなかったかのように,元々やっていた別の講義かなにかの課題に戻っていく様とともに。

教育とは,報われない営みかもしれない。
種を蒔いても,いつ芽が出るかは分からない。いや,芽が出ないまま終わることだってある。
それでも,それでいいのだろうと,今は思える。

でも一方で,私は彼女に「言葉」にしてほしかった。
どんなに小さくても,曖昧でも,言葉にして,誰かと共有する。
それが,社会のなかで「生きる」ということだから。

そう思うのは,私が「自分の頭で考え,それを他者と共有する」ことを,教育の柱にしているからだ。
「分からない」と言うことも,「答えたくない」と表明することも,立派な対話だと思っている。
だからこそ,そのどれにも至らなかったあの沈黙は,私の胸に深く刺さったのだと思う。

今にして思えば,私は彼女に問いを投げかけたつもりだったけれど,
実は彼女こそが,私に問いを投げ返してきたのだ。
「教育って何ですか?」と。
「問いかけられる側が答えられなかったとき,それでも,問い続けますか?」と。

神様仏様も,うまいことなさるなと思う。
あれは,私自身が教育という営みのなかで,試された瞬間だったのだろう。

彼女が後期の講義に戻ってくるかは,分からない。
たぶん,来ないかもしれない。
でも,私は教壇に立ちながら,きっと,あの沈黙の続きを考えている。

問いに「正解」はない。
だからこそ,問いは共に生きるものであり,
それこそが(大学で)学ぶということなのではないだろうか。

良き夏休みを。

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