問いを武器に生きてきた私が,いま宮野公樹先生に問いたいこと

「学問って,なんの役に立つんですか?」

若いころの私は,そんなことを考える余裕すらありませんでした。
私には生き抜くために知恵が必要で,問いは「学問の道具」というより,生き残るための道具であり武器でした。

ファーストエントリーにも書きましたが,私は,高校1年の春に父を癌で亡くし,高校を中退しました。数年間の人生の放浪ののちに大検(大学入学資格検定)を取得し,大学に入り,遅れを取り戻すように学生らしく遊び,そして学びを得ました。幸いにして,良き友人,良き先輩・後輩,そして良き師に巡り合うこともできました。

大学での「学び」は,私にとって社会において対等に生きるための道具でしたし,誰にも負けないための鎧であり,武器でした。(他者と比べることは意味がない,という議論はここでは一旦横に置いておきます。それをまだ理解していなかった,当時の私の話なので)

だからこそ,問いは「自分が立てて,自分で制御するもの」であり,「問いに学ぶ」という感覚は,長らく私にはなかったのです。

最近,宮野公樹先生の『学問からの手紙』を読みました。
宮野先生は繰り返し,こう述べられます。

「問い学ぶのではなく,問いに学ぶ」

この言葉に,私は深く共感しました。
99%,限りなく100%に近い形で私はこの考え方を支持します。
問いは,自分が完全に制御する道具ではなく,時に自分を変え,育てる存在であることを,遅ればせながら実感し始めているからです。

ただ,ほんの1%だけ。
敢えて問いたいことがあります。

それは,
“生きる”という切実さを抱えながら,問いに学ぶことは可能か
という問いです。

知識や問いを「武器」として磨かないと,社会の中で生き残れないという感覚を持たざるをえなかった私のような人間にとって,問いに自分を委ねる余白をどうしたら作れるのか。
どこにその可能性を見出せばいいのか。

私は今,問いを武器に生きてきた自分を否定するつもりはありません。
そのおかげで今の自分があり,学問があり,学生の皆さんに問うことについて問うことができていると感じ始めています。微かながら手応えも生まれ始めました。

だからこそ,もし宮野先生にお目にかかれる機会があるなら,
敢えて問いたい1%の問いはこれです。

①「問いに学ぶ」という姿勢は,”生きる”ことの切実さを抱えた人間にとっても可能でしょうか?生活の不安,競争への不安,そしてそれらに対する生存本能が強く働く中で,問いはどこまで私を育ててくれるのか。育ててくれることは間違いないでしょう。しかし,問うことを道具や武器として見るのではなく,問いに学ぶ境地に至るには,自分自身に相当の余白のようなものが必要であると感じています。このような余白が持てなかった10代〜20代の頃の私のような若者でも「問いに学ぶ」姿勢を持つことはできるのでしょうか。

②もし可能だとしたら,そのために必要な心構えは何でしょうか。

99%の共感と,1%の問い。

それが,私から宮野公樹先生への小さな学問の手紙です。

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