本を読むのはタイパが悪い? 講義の課題図書を敬遠する大学生たち 「効率重視」の考えに「がっかりした」「教え方を見直す」(AERA DIGITAL)
大学教員は基本的にサービス業だと思っているけれど,この件については私は迎合しないかな。何故なら,本を読むこと,人に話を聞きにいくことは,私のアイデンティティの一部だから。
これからも私は本を勧めまくるし,ゆっくりだとイライラされようが動画の方が効率的だと言われようが講義は続けていく(もちろん私自身,今の講義がベストだなんて微塵も思っていないので,受講生の声も参考にしながら不断の改善は続けていくつもりだし,そもそも動画に負けるような講義をしているようなら私に価値はないので静かに退場して隠居でもする。もっともまだそれを判断するレベルにすら達していないことも理解しているが,稚拙な講義ではあるものの動画以上の価値を提供している自負はある,そしてそれは私の力ではないということも付け加えておく)。大学生は立派な成人,大人なのだから,それを受けて,本を読む読まないはあなたの自由だし,講義を聞く聞かないもあなたの自由だ(私語だけは周りの迷惑になるという理由からやめてほしい)。
それから真に大切なことは,本を読むことでも,人の話を聞くことでもなくて(冒頭の通り,私にとってはどちらもとても大切なことだし,大切にして欲しいと願っているが)ましてや課題図書を読んでレポートを書くなんてことでもない。一見無駄に思える作業の中に自分なりの価値を見出すことだ。だから、効率も否定はしないが,時間がある学生のうちに無駄なこともたくさんしておいた方がいいよ,とは思う。(やりたいことがたくさんあって時間ないよ,という気持ちもよくわかる。それはそれで尊いので是非とも打ち込んで欲しい)
もっともこれは経験したことのある人しか理解することはできず,従って無駄なことは死んでもやりたくないという人には永遠に理解する瞬間は訪れない(ある種の共約不可能性と言えるのかもしれない)。さらにこの問題は厄介なことに,無駄なことをしている瞬間にその価値を見出せることはほぼなく(だって無駄だと思っているんだもん),大抵は後から,幸運な人なら数時間後,数日後に気付くこともあるだろうが、多くは数年後とか,下手すると十数年後とかに初めてその価値に気付くことになる。死ぬ間際になってようやく気付いたなんていう人の話も聞いたことがある(この問題,関心を持たれた方は,スティーブ・ジョブズの伝説のスピーチ,あるいはBALMUDA代表の寺尾元のトースターの開発ストーリーを参照されたい)。
だから本を読まなくとも,講義を聞かなくとも,レポートを書かなくとも,私自身は一向に構わないが,なんでもいいので騙されたと思って無駄だと思える作業に取り組んでみてほしい。そしてその糞みたいに無駄な作業からどんな価値が見出せるのだろうと思考を巡らせてみてほしい(糞も立派な肥料になり,その価値を見出すことができる)。その時は気付けなくても,長い人生の中で必ずその価値や意味に気付ける日が来ることを約束する。
さらにもうひとつ,本を生成AIに要約してもらう話だけれども,本を要約するということは無駄だと思われる部分を捨てるということだ。無駄とまでは言わないまでも,少なくとも情報を圧縮するということは何かを捨てる作業にほかならない。ここで先の議論に戻るが,無駄と思われる作業に自分なりの価値を見出すことが大切なのだと述べた。すなわち,要約によって捨てた情報から,何か別の価値を見出せる可能性を捨てたということでもあるということは覚えておくとよいと思う。
長い人生,とはいえ,生は有限で,短い人生とも言える。人生は決断,すなわち取捨選択の連続だ。効率を重視し,非効率だと思われるものを捨てまくる人生もよいだろう。でも,一見すると非効率で無価値と思われるものの中にも真に価値あるものは隠れている。今のあなたには価値が見いだせないだけで,それは将来のあなたの宝物になるかもしれない。その可能性を捨てているということを自覚した上で生成AIを頼って欲しい。将来的には分からないけれど,残念ながら,今の生成AIには要約の作業の中で,将来あなたの役に立つと分かっている情報を選り分けて残しておくという作業までは出来ない(し,少なからず情報を捨てている以上は,恐らく将来的にもほぼ不可能だろう。何故なら何が役に立つのかを全て予測することは恐らく不可能で,結局全て読むしかなくなるからだ。とは言え,それでも効率重視派の皆さんは,中でも可能性の高い部分だけ抽出してもらうということなら出来そうな気がするので,生成AIとの対話を続けられることをお勧めする)
長くなってしまったので効率重視派の皆さんのために,私の主張を1行に要約しておく。(もっとも効率重視派の方々はこのエッセイなどそもそも読まないであろうが、笑)
大切なことは,一見無駄に思える作業の中に自分なりの価値を見出すこと。
願わくば,無駄にまみれた豊かな人生を送って欲しい。(が,老害と言われかねないので強制はしない。あくまで私の価値観に於いて,の話)