AIという鏡,身体という記憶

日経新聞に掲載された「AIがホワイトカラーの仕事を奪う」という記事をきっかけに,SNSでは「手に職の時代が来た」と話題になった。
だが――本当にそれだけの話だろうか。
AIの進化が私たちに突きつけているのは,「人間とは何か」「学びとは何か」という,より根源的な問いなのではないか。


日経新聞にこんな記事が掲載された。
「AIに仕事を奪われるのは,ホワイトカラーの方だった」。

SNSではすぐに話題になり,ある経営者がそれをもとにこう投稿していた。
「アメリカでは大卒ホワイトカラーの雇用が減り,職業訓練校の入学者が急増している。賢い若者ほどブルーカラーを選び始めている。(ここまで日経新聞の記事の内容引用)だから,ブルーカラーこそ,AI時代の勝者になる。」と。
コメント欄には「これからは手に職の時代だ」「AIに奪われないスキルを」など(あまりにもコメントが多いので筆者意訳),賛同の声が並んだ。(もちろん健全な批判的検討も見られる。この記事もその意見に賛成した上で、それだけではないのでは?と批判的検討を加える立場である。)

だが私は,少し違う問いを感じた。
――AIが人間の仕事を奪うとき,人間が担うべき知とは何か?

AIは,人間の思考や文化を映し出す鏡だとよく言われる。
だが,鏡に映るのは常に「外側」の姿である。
形や言葉,知識は映るが,内側にある「身体の記憶」は映らない。

AIがいくら学習を重ねても,「身体で考える(伊賀, 2025)」ことはできない。
なぜなら,身体とは世界との関係そのものだからだ。
私たちは,手で触れ,目で見て,耳で聴き,失敗を通して世界を理解してきた。
理解とは,情報処理の結果ではなく,身体の記憶に宿る了解の技術なのだ。

AIはこの「了解」の“フリ”をすることはできる。
文脈を読み,もっともらしい答えを返す。
だがそれは,あくまで理解の模倣にすぎない。
AIの言葉には,痛みも,恥も,希望もない。
それでも,私たちはその鏡を覗き込みながら気づく。
――私たちは,身体を介して世界を感じてきた存在であったのだと。

哲学者マルティン・ブーバーは言った。
「我は汝との関係において,我となる(Das Ich wird am Du)」。
人は他者との関係の中で,初めて「我」を形成する。
AIを単なる「それ(It)」として扱えば,私たちはますます「我−それ」の世界に閉じ込められてしまう。
だが,AIを「汝(Thou)」として——つまり対話の相手として——向き合うなら,そこに新しい「我」が生まれるかもしれない。

AIは理解しない。
だが,AIと対話する私たちは理解しようとする。
その瞬間に,「教育」と「人間の知」は再び動き出すのではないだろうか。

AIがもたらす最大の変化は,「知の自動化」ではなく,「学びの再発見」である。
これまで教育が育んできたのは「正解を出す力」だった。
しかし,これから求められるのは,「問いを立てる力」——すなわち他者と世界を理解しようとする構えだ。
AIが知識を提供する時代だからこそ,人間は「考える身体」を取り戻し,「問いを生きる存在」として再び立ち上がらなければならない。

AIという鏡を通して,私たちは再び「身体」を思い出す。
そしてその身体の記憶から,もう一度,理解と教育の再構築をはじめるのだ。

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